龍光院 (京都市) (Ryoko-in Temple)

龍光院(りょうこういん)は 京都府京都市北区 (京都市)紫野にある、臨済宗大本山大徳寺の仏塔塔頭(たっちゅう)である。
観光客に対しては非公開の方針を貫いており、特別公開の類も一切行われていない。

歴史

筑前福岡藩主・黒田長政が父・黒田孝高の菩提を弔うために建立。
春屋宗園(しゅんおくそうえん)が没したために事実上の開山となった江月宗玩(こうげつそうがん)は小堀遠州などと親交のあり,在世中には遠州が営んだ孤篷庵が院内にあった。
かつての龍光院は現在の3倍ほどの敷地だったが、明治の神仏分離令の施行に際して破却の憂き目にあい,現在の姿となった。

建造物

書院(国宝)
江戸時代前期(17世紀半ば)に建てられた寄棟造り・杮(こけら)葺きの建物。
北西隅に位置する四畳半台目茶室「密庵席(みったんせき)」は書院風茶室の代表例で、元は独立した建物だったとされる。
密庵席は西側の縁側境を明障子、南側の十畳間との境を襖で仕切り、東北側に手前座、北側壁の西寄りに床の間を設ける。
この床の間とは別に、手前座の南側に奥行の浅い床の間を設ける。
これは国宝の「密庵墨蹟」の掛け物を掛けるための専用の床である。

本堂(重要文化財)
書院の西に建つ。
慶安2年(1649年)の建立。
寄棟造檜皮葺き。

盤桓廊(ばんかんろう、重要文化財)
本堂と同じく慶安2年(1649年)の建立。
本堂と書院の間の南方に位置する廊下である。

兜門(重要文化財)
龍光院の表門で、檜皮葺きの平唐門である。

国宝

書院
密庵咸傑墨蹟(附 千利休消息)
中国・宋代の禅僧・密庵咸傑(みったんかんけつ)の現存唯一の墨蹟とされる(「墨蹟」は禅宗高僧の筆跡を指す用語)。
この法語は禅林(禅宗の寺院)はもとより千利休をはじめとする多くの茶人より多大な尊敬が払われ,龍光院書院内の茶室・密庵席には特にこの一幅のみを飾るための密庵床(みったんどこ)という場所が設けられている。
附指定の利休の添状は墨蹟とともに伝来してきたものである。

竺仙梵僊墨蹟
およそ20年間にわたり日本禅林の振興に力を注ぎ,後の五山文学(鎌倉末期~室町時代の京都五山の禅僧の手になる漢詩文)興隆の基礎を築いた中国・元の禅僧である竺仙梵僊(じくせんぼんせん)の墨蹟である。
現存する竺仙梵僊の墨蹟中で大字・大幅であり、彼の闊達な書法を示す代表作といえる。

大覚禅師筆金剛経
曜変天目茶碗
中国・南宋時代。
福建省の建窯の製品。
曜変天目は黒釉の表面に大小の斑紋が現れ、虹のようにきらめくものである。
曜変天目の遺品はきわめて稀少で、世界で日本のみに伝世し、本碗を含め3碗ないし4碗が伝世するのみとされている。

重要文化財

本堂及び盤桓廊
兜門
絹本淡彩山水図 伝馬遠筆
絹本着色十六羅漢像
紙本墨画栗図・柿図 2幅 伝牧谿筆
紙本淡彩琴棋図
油滴天目茶碗
後西天皇宸翰消息
南浦紹明墨蹟 法語(徳治二祀季秋)
宗峰妙超墨蹟 法語(要決了死生云々)
大川普済語録鈔 宗峰妙超筆

有栖川宮家墓所
龍光院は明治維新まで高松宮・有栖川宮家の菩提寺であり、初代・高松宮好仁親王から第8代・有栖川宮韶仁親王までの歴代墓所がある。
(ただし、第2代・良仁親王は践祚して後西天皇となったため、龍光院ではなく泉涌寺に葬られている)

アクセス

JR京都駅より京都市営バス・大徳寺前(約30分)下車、徒歩

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